二俣城 徳川家康と武田勢と戦いの場 井伊直虎直政の時代背景

以前自宅から15km程の、浜松市天竜二俣にある二俣城跡に行った時のものです。

徳川家康と武田勢が城取りの合戦があった城です。


ほぼ「おんな城主直虎」の時代背景です。


一度記事にしたのものですが、戦国時代をやって


いますから・・・





二俣城の資料では 暇なら読んで見てください。


標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪,本丸,二の丸曲輪,蔵屋敷,南曲輪がほぼ一直線

上に配置され、天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口を設け、北虎口は食い違い虎口です。


 本丸西側には小規模な天守台が残っており石積みは野面積みです。本丸の南側には二の丸曲輪があり枡形

門跡がある。二の丸曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間には堀切があります。


 蜷原(になはら)台地(標高90m)が大きく北から南へせり出している先端部に位置し、西側には大きく蛇行する

天竜川、東側には二俣川と自然の要害の地に築城されています。


 山の中腹まで車で上ることができ、比較的簡単に誰でもが楽しめる城で、天正3年徳川家康が二俣城を落とす

ために築いた鳥羽山城が南方約1km、天竜川の対岸には和田ヶ島砦,二俣川を挟んでは毘沙門堂砦がありま

す。


 なお、二俣城は天正7年(1579年)7月、徳川家康の正妻・築山殿と長男・信康が武田勝頼に内通したとの罪に

より、織田信長からの要請もあって信康が自害した城としても知られています。

 信康の墓は家康が菩提を弔うため建立した清龍寺(二俣小学校の北)にあります。




崖の上に設けられている二俣城天守台の粗い野面積みの石垣、手前は本丸跡地です。



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城跡に向かって登って行くと右側の下に流れの早い天竜川が流れています。


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更に登っていきます。

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天守台の南東側より


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天守台の石垣北側より東方向(本丸側)を


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天守台の石垣は野面積みで隙間も多く粗いものです。

規模は比較的小さいです。

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もう少し信康について


永禄(えいろく)2年3月6日生まれ。徳川家康の長男。母は築山殿。駿河駿府で誕生しました。

織田信長の娘徳姫と結婚し、元亀(げんき)元年岡崎城主となり岡崎次郎三郎信康と名のりました。

武田勝頼との関係を信長にうたがわれ,家康の命で天正7年9月15日遠江(とおとうみ)(静岡県)二俣城で切腹。

21歳でとても若かったです。本姓は松平です。





ちょっと前の二俣城の戦い、ここも暇なら読んで・・・

発端

元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指す武田信玄は、徳川家康の所領である遠江に侵攻した。

信玄は遠江における徳川方の諸城を東西に分断するため、10月13日には腹心の馬場信春に一軍を預けて只

来城を落とさせた。

自らも2万2000の軍勢を率いて天方城・一宮城 (遠江国)・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で全て落とし

た。

10月15日には、匂坂城を攻略した。これにより、掛川城や高天神城は孤立し、家康方は浜松城にある城兵だけ

で武田軍と戦うことを余儀なくされたのである。

その結果、10月14日に行われた一言坂の戦いで、家康は信玄の前に大敗を喫したのです。

この一言坂は国道1号沿いに碑だけが存在し、自宅から2km程です。



一方、家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲した。

二俣城は浜松城と掛川・高天神城のちょうど中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点であっ

た。

武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要があった

のです。




二俣城攻防戦

城兵の抵抗

二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が文字通り天然の堀を成していた

堅城であった。

城将は中根正照、副将は青木貞治であり、城兵の数は1200人ほどであった。一方の武田軍は馬場信春軍と信

玄軍が合流して、2万7000人の大軍であり、力攻めも不可能ではなかった。


正照は家康、そしてその同盟者である織田信長の後詰(援軍)を期待して、信玄の降伏勧告を拒否する。

このため10月18日から武田軍の攻撃が開始された。しかし二俣城の攻め口は、北東の大手口しかない。しかも

その大手口は急な坂道になっており、攻め上ろうとする武田軍の進行速度は遅く、そのために次々と矢弾の餌

食となっていった。このため、武田軍は二俣城を攻めあぐんだのです。



水の手

11月、信玄の命令を受けて家康の所領である三河に侵攻していた山県昌景が信玄に合流した。しかし、武田軍

の攻撃に進展はなく、そうこうしているうちに12月に入った。


信玄は力攻めでは二俣城を落とすことは無理と判断し、水の手を絶つ方法を考えた。二俣城には井戸が無く、

天竜川沿いの断崖に井楼を設けて、釣瓶で水を汲み上げていたのである。そこで信玄は大量の筏を作らせて天

竜川の上流から流させ、筏を井楼の柱に激突させて破壊するという策略を実行に移したのです。この作戦は見

事に成功し、大量の筏に激突された井楼の柱はへし折れて崩れ落ちてしまい、水の手は絶たれたのです。


信玄は水の手を絶った上で、開城を迫った。中根正照は万一に備えて桶に雨水を貯めるなどの工夫もしていた

のだが、1200人もの人数にいつまでも持つわけがなく、運良く雨が降り続けるわけもない。そのため、正照は信

玄に降伏・開城して浜松城に落ちていった。こうして、二俣城は信玄の手に落ちたのです。



影響

二俣城攻略は、武田氏と徳川氏の優劣を決定的なものとした。これにより、日和見を決め込んでいた飯尾氏・神

尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従うことを表明したからです。


これにより信玄の次の標的は、家康の居城・浜松城となり、12月22日の三方ヶ原の戦いへと突入していくことに

なるのです。

そして家康は三方原の戦いでは武田騎馬軍団に攻められ敗走して、浜松城に逃げ帰るのです。

そのようなことが有りながら戦国の時代は織田、豊臣と移っていきます。









ちょっと繋がりで、二俣城南15kmほどの徳川家康の居城浜松城


資料によると浜松城は静岡県浜松市に1570年に徳川家康が築城した小高い丘に築城している平山城で3層

(屋根が3重)3階本瓦葺きで昭和33年に再建されています。城郭は三方原台地の南端の傾斜地に築かれ、天

守閣、本丸、二の丸、三の丸が地形にならい西から東に階段状に一列に並んでいました。家康が29歳から17

年間在城しており、家康が去ったあと浜松城主になることが幕府への登竜門となり出世城とも言われていまし

た。
現存する石垣は築城当時のもので、野面積みと言われ野戦城にふさわしい荒削りの石垣で構築されています。

天守閣内の地下には井戸が存在しています。



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この記事へのコメント

2017年10月15日 11:29
城、城跡って、画像だけやと、それしか見えないですが、こうして、丁寧に資料をつけて頂くと、その背景が解ってイイですね。
戦で、兵糧攻めって、よく聞きますが、水を絶つのは巧手。
築城の条件として水は欠かせないのに、井戸が無かったのというのは、いくら守るに良い地理があっても失敗。
それに気付いた武田軍が天晴れ。(^^)
山ちゃん
2017年10月17日 07:44
戦国時代は高いところに城を作るのが普通のようでしたが
最も必要な水を断つと言うことが、戦わずして勝つと言う最高の
手段ですが、相手よりも大人数と長期に耐え待つことが必要でしたね。
たくさんの馬を使った武田信玄の騎馬軍団は最高に強かったと思いますね。
武田勝頼の時代になると織田がたくさんの鉄砲を手に入れ逆転していくのですね。

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